朝潮が生まれた徳之島は当時はアメリカの占領下にあったため、日本に渡航するためには手続きが必要だった。そのために朝潮は貨物船で密航して入門を果たした。百年に1人とまで言われた戦後最高の有望新弟子だった。前評判通りスピード出世で幕内まで昇進した。幕内に入るとと腎臓病などの影響で成績が伸び悩んだ。だが徐々に地力を発揮し始めると、幕内6場所目に前頭2枚目まで昇進すると横綱の羽黒山と千代ノ山と大関鏡里を倒して殊勲賞を獲得した。翌場所も殊勲賞を獲得して大関も間近と思われたが痔の影響でしばらく低迷する。痔が治癒して地力を発揮して昭和31年3月場所で初優勝。1年後の3月場所で2回目の優勝で大関昇進を果たした。関脇から大関にかけて大阪場所3連覇を果たしたことから“大阪太郎”と呼ばれた。左はず、右上手を取って挟み付けるようにして出るときは無敵だったが、致命的な脊椎分離症に悩まされ、大成することができなかった。3場所連続全休など休みが込んだ時は「や印の横綱」と呼ばれ、強弱の差が激しかったことから「強い朝潮と弱い朝潮がいる」などと言われたりした。横綱としては因縁の大阪場所での1回優勝したのみだった。引退後は高砂部屋を継承し、高見山・朝潮・小錦らの弟子を育てた。長身の巨体、胸毛、太い眉の男性的なマスクで人気を集め、少年雑誌の表紙を飾ったり、映画「日本誕生」に出演し、天照大神が閉じこもった天の岩戸を開ける天手力雄命を演じたりしたこともあった。優勝5回(うち大阪で4回)。
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