中学時代は柔道で名を馳せたがスカウトを受けて相撲界に入った。二所ノ関部屋から片男波部屋に移ってからは体重も増えるようになり、番付を大きく上げ始めた。十両を3場所で通過すると幕内でも勝ち越しを続けて小結に昇進した。新小結となった昭和40年から部屋別総当たり制の導入され、その初日に同門の大鵬を内掛けで破って一気に名を知らしめることとなった。またこの勝利は部屋別総当たり制導入を不安視する声を吹き飛ばした。ライバルとなった北の富士に1場所遅れて大関に昇進し、大関時代は自分の相撲の型の完成に精進した。何回か昇進を見送られたが、在位20場所で北の富士とともに横綱昇進を果たした。このときの横綱審議委員会での話し合いでは、連続優勝した北の富士よりも将来性は上ということで横綱昇進が決まった。そしてその期待に沿うように右四つの型は冴えを見せ、連続優勝・4場所連続14勝・初の全勝優勝など玉の海時代の幕開けと思われた。しかし、盲腸炎を患いながら薬でごまかしての相撲という無理がたたり入院、盲腸手術後の心臓動脈血栓のため弱冠27歳で亡くなってしまった。大鵬の引退相撲で太刀持ちを務めたわずか9日後のことだった。現役横綱の死亡は玉錦以来33年ぶりのことだった。横綱勝率は.867、金星配給はわずかに3個。亡くなる直前は14勝・14勝・14勝・14勝・13勝・15勝・12勝というとてつもない成績だった。優勝6回。
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